ブラームスはお好き [音楽]
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今夜は爪とぎの上に座って名曲を楽しんだ
テレビに映っているのはNHKホールだが、
演奏が終わって余韻に浸る 太郎。
曲目はブラームスの「交響曲第3番」。
第3楽章はフランソワーズ・サガンの小説
「ブラームスはお好き」を
1961年に映画化した「さよならをもう一度」の中で
使用された甘美なメロディ。
私も好きだけど、太郎も好きなのね。
なんてことはないよね
旅愁 [音楽]
旅 愁
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 故郷の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
窓うつ嵐に 夢もやぶれ
遙けき彼方に こころ迷う
恋しやふるさと なつかし父母
思いに浮かぶは 杜のこずえ
窓うつ嵐に 夢もやぶれ
遙けき彼方に こころ迷う
わびしき思いに 一人悩む
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 故郷の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
窓うつ嵐に 夢もやぶれ
遙けき彼方に こころ迷う
恋しやふるさと なつかし父母
思いに浮かぶは 杜のこずえ
窓うつ嵐に 夢もやぶれ
遙けき彼方に こころ迷う
犬童球渓 作詞
オードウェイ 作曲
唱歌「旅愁」は、明治40年8月に「中等教育唱歌集」に取り上げられ、
12月号の「音楽新報」の掲載された。
犬童球渓は、明治12年に熊本県球磨郡(現・人吉市)で
農家の次男に生まれた。
新潟県県立新潟高等女学校(現・新潟中央高校)に
赴任中にアメリカのオードウェイが作詞・作曲した
「家と母を夢見て」を知り、原詩とは異なる
日本人の心情に合わせて作詞をした。
家と母を夢見て
夢にみるはわが懐かしの家よ
母と過ごした幼き日々よ
目覚めしときにしばしば甘き思い
家と母を夢みてきたのだった
わが幼きとき懐かしの幸福な家よ
妹や弟と遊んだあのとき
漂白のときの甘き喜びだった
丘のむこう谷をこえて母が見える
夢にみるはわが懐かしの家よ
母と過ごした幼き日々よ
目覚めしときにしばしば甘き思い
家と母を夢みてきたのだった
眠りさわやかに目を閉じれば
いつも母の姿が思い出される
ほら!母の声が聞こえるようだ
ああ、夢の中の家よ母よ
天使が来る憩いのひととき
私にはわかる天使の訪れが
祝福あれと天使は祈るのだ
はっきりと家と母が見える
子どものころが再び思い出される
眠ると愛しの母に会える
私のそばに座るやさしい母に
夢路ではずっと家と母に会える
愛しの母が今の私に囁きかける
妹や弟のことを教えて欲しい
いま額にその手を感じる
ああ、夢の中の家よ母よ
花の街 [音楽]
花の街
七色の谷を越えて
流れて行く 風のリボン
輪になって 輪になって
かけていったよ
春よ春よと かけていったよ
美しい海を見たよ
あふれていた 花の街よ
輪になって 輪になって
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ
すみれ色してた窓で
泣いていたよ 街の角で
輪になって 輪になって
春の夕暮れ
ひとりさびしく 泣いていたよ
( 江間章子作詞・團 伊玖磨作曲)
昭和22年にNHK「婦人の時間」で発表された
團伊玖磨作曲の歌曲「花の街」は、中学校音楽の
歌唱教材として、掲載されている。
「花の街」は、私の幻想の街です。
戦争が終わり、平和が訪れた地上は
瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。
その中に立った私は夢を描いていたのです。
ハイビスカスなどの花が中空に浮かんでいる、
平和という名から生まれた美しい花の街を。
詩の中にある「泣いていたよ 街の角で・・・」
の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや
悲しみを味わった人々の姿を映したものです。
この詩が曲となっていっそう私の幻想の世界はひろがり、
果てしなく未来へ続く「花の街」となりました。
江間章子記(教育芸術社 音楽教科書より)
〔 ♪ ひとりごと 〕より、一部転載
七色の谷を越えて
流れて行く 風のリボン
輪になって 輪になって
かけていったよ
春よ春よと かけていったよ
美しい海を見たよ
あふれていた 花の街よ
輪になって 輪になって
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ
すみれ色してた窓で
泣いていたよ 街の角で
輪になって 輪になって
春の夕暮れ
ひとりさびしく 泣いていたよ
( 江間章子作詞・團 伊玖磨作曲)
昭和22年にNHK「婦人の時間」で発表された
團伊玖磨作曲の歌曲「花の街」は、中学校音楽の
歌唱教材として、掲載されている。
「花の街」は、私の幻想の街です。
戦争が終わり、平和が訪れた地上は
瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。
その中に立った私は夢を描いていたのです。
ハイビスカスなどの花が中空に浮かんでいる、
平和という名から生まれた美しい花の街を。
詩の中にある「泣いていたよ 街の角で・・・」
の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや
悲しみを味わった人々の姿を映したものです。
この詩が曲となっていっそう私の幻想の世界はひろがり、
果てしなく未来へ続く「花の街」となりました。
江間章子記(教育芸術社 音楽教科書より)
〔 ♪ ひとりごと 〕より、一部転載
わが家のシラーは、植えっぱなしなので茎が寝てしまって
なんだかだらしなくて・・・いと哀れ。
今年は植え替えをしなくてはね。
ユリ科の “シラー”
別名 =ワイルドヒアシンス
花言葉=志操堅固・辛抱強さ・多感な心・悲しい・哀れ・寂しい・不変
発表会 [音楽]
今年度の ♪ピアノ発表会 を無事に終えることができた。(⌒-⌒) ホッ!
上記は、この「気ままなBlog」をスタートした1年前の書き込み。
そして昨日、今年度の ♪ピアノ発表会 を無事に
終えることができた。(⌒-⌒) ホッ!
\(o‥o) ハイハイ、何があっても驚きませんわ。
このBlogに時々登場するNちゃん、トップの演奏だったのだが、
ステージに上がるまで、ご機嫌がよろしくなくて愚図っていたのに、
いざとなると、何ごともなかったかのように演奏を・・・
よく頑張ったね。
2009-08-03 10:10
コメント(6)
バッハの65年 [音楽]
65歳で亡くなるまでに無数の名曲を作曲し、
ヘンデルと共にバロック音楽の最後を飾り、
音楽史上最大の音楽家のひとりとなったバッハは、
259年前の7月28日に愛する人々に見守られ、
午後8時45分 静かに息をひきとった。
遺体は3日後の7月31日に、聖ヨハネ教会の
墓地に埋葬された。
バッハは亡くなる前年に卒中の発作をおこしていて、
衰えていた視力が急速に減退し、2度にわたって眼の手術をしたが、
不成功に終わり完全に失明しただけでなく、併用した薬が害となって
体が急速に衰弱した。
一時視力が回復したが、すぐまた卒中の発作がおこり10日後に、
65歳で亡くなったと記されている。
ヨハン・セバスティアン・バッハ
(1685.03.21~1750.07.28)
バッハが世を去った、6年後に生まれたモーツアルトの35年の生涯と
比べると、長く生きたことになるし、二人の良き妻と多くの子どもたちに
恵まれた幸せな一生だったのだろう。
ただ、今の自分の年齢だと気づいたときに、ちょっと考えさせられた。
2009-07-28 23:39
コメント(8)
揺籃のうた [音楽]
→→→
カナダに滞在中の天皇、皇后両陛下は9日、
トロント市内の医療施設「小児病院」を
訪問され、子どもたちを励まされた。
皇后さまは、難病の子どもがいる同病院の読書室で、
子育て中によく歌われた日本の子守歌
「揺籃(ゆりかご)のうた」を歌われた。
揺籃のうた
揺籃のうたを カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
揺籃のうえに 枇杷の実が揺れるよ
ねんねこ ねんねこねんねこよ
揺籃のつなを 木ねずみが揺するよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
揺籃のゆめに 黄色い月がかかるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
北原白秋作詞
草川 信作曲
大正10年8月に北原白秋が作詞し、
大正11年6月に草川信が作曲したと伝えられている。
ラン科の“モジズリ"(捩摺)
別名=ネジバナ(捩花)
花言葉=思慕
カナダに滞在中の天皇、皇后両陛下は9日、
トロント市内の医療施設「小児病院」を
訪問され、子どもたちを励まされた。
皇后さまは、難病の子どもがいる同病院の読書室で、
子育て中によく歌われた日本の子守歌
「揺籃(ゆりかご)のうた」を歌われた。
揺籃のうた
揺籃のうたを カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
揺籃のうえに 枇杷の実が揺れるよ
ねんねこ ねんねこねんねこよ
揺籃のつなを 木ねずみが揺するよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
揺籃のゆめに 黄色い月がかかるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
北原白秋作詞
草川 信作曲
大正10年8月に北原白秋が作詞し、
大正11年6月に草川信が作曲したと伝えられている。
ラン科の“モジズリ"(捩摺)
別名=ネジバナ(捩花)
花言葉=思慕
2009-07-11 16:02
コメント(8)